春・秋のお彼岸にお墓参りをするのは日本だけです。インドや中国は彼岸会(ひがんえ)が行われていません。なぜ?日本だけお墓参りや先祖供養の法要をするのかをご説明します
【一般解釈】春・秋のお彼岸の意味(お墓参りや法要)
春・秋のお彼岸は【1】先祖供養、【2】六波羅蜜(ろくはらみつ:悟りの境地に至る修行)、【3】春は秋の収穫祈願、秋は収穫祭、【4】春・秋分の日は彼岸(あの世)と此岸(この世)が最も近くなる日である事が一般解釈の意味です
| お彼岸の意味 | 詳細 |
| 【1】先祖供養 | 次項目で解説 |
| 【2】六波羅蜜 | 仏教の修行 |
| 【3】収穫祈願、収穫祭 | 春:種まき、秋:収穫 |
| 【4】彼岸と此岸 | あの世とこの世が最も近い日 |
しかし、仏教発祥のインド、日本と中間地点にある中国の仏教にお彼岸(彼岸会や墓参り文化)はありません
上記の表にまとめた内容【2】~【4】の簡単な説明が次になりますが、本質的な話やこの記事を読む方が知りたい内容ではないと思いますので、読み飛ばし可です。【1】の供養の項目がお探しの事柄になります
お彼岸の六波羅蜜とは?
六波羅蜜と書いて『ろくはらみつ』と読みます。六波羅蜜とは全6種類の僧侶の修行、一般人に無関係のです。主な修行は【1】布施、【2】持戒、【3】忍辱、【4】精進、【5】禅定、【6】智慧になります
大乗仏教の教えでは『布施:見返りを求めず』、『持戒:ルールと道徳を守る』、『忍辱:負の感情に向き合う』、『精進:努力をおしまない』、『禅定:心を乱さず冷静になえる』、『智慧:真理を悟る』という意味があります
お彼岸の収穫祈願、収穫祭とは?
春のお彼岸は毎年3月、丁度、秋に向けて作物の種を巻く時期、秋のお彼岸の9月に収穫をします。これらの農業に対する収穫祈願と収穫祭を兼ねたお祝いが、お彼岸や彼岸会をする意味の1つとされます
分かりやすく言うと、春のお彼岸に『今年、いっぱい米や小豆ができますように』とお願いをし、秋のお彼岸に『実りへの感謝』をすると考えると理解しやすい内容です
彼岸と此岸とは?
彼岸(ひがん)と此岸(しがん)は、あの世(死後の世界)とこの世(現世)という意味です。お彼岸の中日は、春分の日と秋分の日です。この日は『夜と昼がほぼ同じ長さになる日』であり夜が『あの世』とすると、昼が『この世』です
日本から見えて仏教の発祥地インドは西側。地球と太陽の位置の関係で、春分・秋分の日は『太陽が真西に沈むこと』から天竺や極楽浄土が西(インドの方角)にあるとされる点も関連します
また、仏教だけではありませんが、魂や霊は逢魔時(おおまがとき)と呼ばれる『昼から夜に変わる瞬間(日没)』から活動する言い伝えがあり、春分・秋分の日は厄払いや法要をした方が良いと考えられる事が理由になります
【2】~【4】は日本だけする理由になっていない
方便やお彼岸をするなんとなくの意味合いの説明なら、【2】~【4】でも良いでしょう。しかし、ここまでの説明は、何故、日本だけお彼岸をするのか。理由の説明になっていませんよね
【お彼岸】日本だけお墓参りをする意味は早良親王の供養が由来
日本だけお彼岸にお墓参りや供養、法要をする本当の理由は、平安時代頃の冤罪:早良親王の憤死、祟りを恐れ7日間の供養をした彼岸会が由来です。公式記録では806年に行われた彼岸会が日本初になります
彼岸会は聖徳太子(厩戸皇子)の頃から存在した諸説があります。聖徳太子(厩戸皇子)は仏教を推進した人物で、何かしらの事はしたのでしょうが、現在は具体的に関係性が判明していません
早良親王を現代風にわかりやすく言うと『罪を問われ、冤罪ではない!無実だと訴える為に断食』、その約10日後に栄養失調で亡くなってしまった皇族です
【日本初】彼岸会が行われたのは祟り神となった早良親王
お彼岸の事の始まりは、長岡京遷都を進めていた藤原種継を早良親王が暗殺したと容疑にかけられ、早良親王が亡くなった事件が発端です
早良親王の死後、その後、安殿親王に病気が発覚、天皇妃が病死。桓武天皇の母の病死、大地震、疫病、洪水といった災害が続き『早良親王の祟りでは?』と噂されます
| 西暦 | 出来事 |
| 785年11月4日 | 藤原種継が暗殺される |
| 785年11月11日 | 長岡京遷都 |
| 785年11月13日頃 | 早良親王が憤死 |
| 790年1月17日 | 高野新笠の病死(桓武天皇の母) |
| 792年6月10日頃 | 安殿親王の病気発覚 |
| 792年9月と11月 | 長岡京の大洪水 |
| 794年7月10日 | 未知の大地震 |
| 794年10月22日 | 平安京遷都 |
| 795年2月7日 | 京都大雪の災害 |
| 796年6月21日 | 京都大雨洪水の災害 |
| 798年 | 早良親王の立派なお墓を作る |
| 800年7月23日 | 早良親王を『崇道天皇』と追称する |
| 806年 | 供養の為、彼岸会を行う |
※早良親王の没日は諸説ありますが、内容からして11月13日~17日頃とされます
わかりやすいように、彼岸会が行われるまでの歴史の流れをまとめました。785年の早良親王が憤死以降に起きた不吉な出来事をピンク色に色付けしました
安殿親王の病気発覚(792年)は『早良親王の祟りによるもの』と占いの結果が出され、病気の概念がない当時の宮中の人たちは、かなりビビったのでしょう。その後も桓武天皇の周りで不幸が連発、平安京に都を移してからは京都が災害続きとなります
特に近年発見された未知の大地震(794年)は南海トラフ地震との関係性が現在も調査がされている状態です
このように表を見ると『さすがにやべぇ!!』と当時の人が考えてしまう事は致し方がないでしょう。その結果、早良親王の祟り(怒り)を鎮める為に、お墓を作り、崇道天皇と追称するなど!様々な応急処置がされます
そして、最終的に『早良親王の供養の為、彼岸会を行う(806年)』につながります。早良親王の彼岸会が、日本初のお彼岸です。この時に『現在のお彼岸と同じ7日間』を供養し続けたそうです
【江戸時代】お彼岸が庶民に広まった理由は『六阿弥陀参り』
お彼岸にお墓参りや供養をするのは、宮中やお偉いさん達だけが行う事でした。理由は前途の通り、早良親王の魂の救済、供養が目的であったからです。現在なら天皇家は春分・秋分の日に春季皇霊祭、秋季皇霊祭という皇族の霊を祀る儀式が行われます
では一般人はどうかと言うと、江戸時代になると、庶民にお彼岸の文化が広まります。なぜ、庶民にお彼岸が根付いたのか。明確な資料はないとされますが、庶民にお彼岸が定着した理由は『六阿弥陀詣』が流行した事が由来とされます
六阿弥陀詣は霊を鎮める供養の意味が含まれますが、江戸っ子が楽しい行事と考えることができた理由は『ぼた餅、お萩の魔除け効果』が信じられたからと筆者は考察します
ぼた餅、おはぎの小豆は『魔除け』
お彼岸の食べ物と言えば、ぼた餅(春)、おはぎ(秋)です。材料は縁起物である『お米(もち米)』と『小豆』です
餅と小豆の合わせ菓子が、ぼた餅やおはぎ。縁起物と魔除けを合わせたら、悪い霊や魂を追い払う事ができるでしょう。このように考えると、江戸っ子が好みそうな内容ですよね
小豆は五穀の1つ、五穀とは昔から『霊力や不思議なパワーがある』と日本では考えられてきました。小豆の漢字の豆を『魔滅(マメ)、魔物を滅する』と当て字される事があります
また、今は小豆の赤い色の正体はポリフェノールと判明していますが、昔の日本は『邪気を払い、災いを避ける力がある』と考え、魔除けアイテムの1つとしていました





















